あの頃のわたし

2011年、9月。サンフランシスコの語学学校にきました。海外研修で一度きたサンフランシスコ。一人で来ると、全く違います。何もかも不安でした。最初はColmaにあるホームステイ先で1か月ほどお世話になりました。あんなに勉強したのに、まったく上達しない英語。風邪を引いたとき、よくわからない腹痛によって辛い思いをしたのに、どう英語で言えばいいのか、どんな薬がいいのか分からず、辛い思いをしました。来て一か月でホームシックです。あんなに牛タンが死ぬほど食べたいなんて、今まで思ったことありません。夜は、泣きました。しかし、語学学校で出会った友達はみんないい子ばかり。みんな友達が欲しいんです。親元から離れ、異国の地で生活をしていかなくてはならない。

同じ境遇の子が集まる語学学校。一番初めに友達と出会える場所でした。ここの生活は本当に楽しかったです。遊びまくりましたね。だから楽しかった。一か月たてば、こんな感じです。韓国、台湾、中国、サウジアラビア、タイ、いろんな国の子とサンフランシスコを満喫していました。勉強するには、良くないん環境なんじゃないかと思ったんですが、逆に、サンフランシスコだからこそ、楽しめたのかなと(笑) お互いの英語は、正直、うまくはなかったです、しかし、励まし合いました。サウジアラビアの友達がよく言いました。「言葉の壁なんて、気にしてはだめだよ。今は下手でも、いつかはうまくなるから。大丈夫。僕らはこうして出会えた。友達になれたんだから」語学学校の友達は、今でも大切な人たちです。一年間の中で、励まし合いながら、お互いの成長を見てきました。彼らに出会えたからこそ、留学してすぐに楽しい生活にできたんです。

 

そこから、ようやく語学学校を卒業し、CupertinoにあるDe Anza Collegeに入学することができました。さて、語学学校とは一変、入学し、一週間で宿題。分厚い本に、専門用語が飛び交うグループディスカッション、千文字以上のエッセイ。朝から晩まで、勉強以外のことしかしてませんでした。辛かったですね。やりました。机にある教科書のどさーって床に落としました。またまた泣きました。なかなかいい成績が取れず、落第を一つ取ったこともありました。アメリカの歴史の先生に泣きながら言ったんです。「難しい。私には無理だ」と。しかし、先生は優しく頭をなでてくれる、なんてことはありません。ただこう言いました。「あなたが選んで、こっちで勉強をしてるのでしょう。あなたがこの学校を選び、この授業を選んだ。最後まで責任を持って一所懸命がんばりなさい。勉強することが、学生であるあなたの仕事です。」こう厳しく言われた後で、こうも言われました「ただ、難しいと感じたら、それは恥ずかしいことではないよ、素直に助けを求めなさい。いくらでも力を貸します」と。難しい、だから諦める。そうではない。本でも教えてくれたように、努力しなければ、その先の苦労も分からない。成長できないんです。一所懸命に勉強しなければ、学ぶ事さえできないんです。一人の友達に出会いました。彼は、逆に日本に留学をしたいと、日本語を学んでいました。言葉を学ぶ難しさを一番理解してくれた友達です。彼はいつも自分に言い聞かせていました。「一歩一歩」と。何事も、一歩一歩焦らずに努力することです。焦っては、何も見えてきません。ゆっくり、自分のペースで2年制大学の生活を頑張りました。無事に卒業できたときは、嬉しかったですね!あんなに英語の成績が悪く、夏休みと冬休みは、補習として学校でみっちり勉強させられたほどです。もともと4年制大学に編入は考えてませんでしたが、無事に学校を卒業できたことが、何よりも嬉しく、両親に報告できたことが本当によかったです。

 

大学を卒業する前、学校と家の往復の生活から、新しい人に出会う機会がありました。それは2014年、5月に行われたシリコンバレーで日本人の運動会に行った時です。今までは、De Anza College以外の日本の方と会う機会があまりなかったので、とても新鮮でした。そこで出会った人達は、それぞれ夢を持ち、それぞれの生き方がありました。勉強だけを考えていた私には、ここで働くということまでは考えていませんでした。というより、この自分がここで働くことができるなんてこともです。私が出会った人は、自分の課せられた仕事に対して、一生懸命且つ本当に楽しく仕事をしていました。自分はここまで努力してるんだぞと、それを全く見せることなく、いつも自分はまだまだだと、言いながら一所懸命に仕事をしている姿がとても印象に残っています。私からしたら、仕事、それは勉強より大変な事。卒業をしたら帰国しよう、それだけを考えていた私は、アメリカで仕事ができる、いったいどんなことが学べるのだろう?どんな壁が待ってるのだろうとワクワクしました。

そして、OPTを一年間する、という機会を頂きました。新しく出会えた人、そしてアメリカで働くという機会を与えてくれた人達に出会えた奇跡。このチャンスを逃したくないと思いました。そして私は帰国ではなく、一年間のOPTを選びました。

 

私がOPTとして、働いている場所は、サンフランシスコにある、Little Angels Japanese Preschoolです。ほとんどがアメリカと日本のハーフの3歳と4歳の、Kindergartenに通う前の子供が通っています。 自分が一人っ子ということもあり、子供と遊ぶことが昔から好きでした。 そして、絵本を作ることにも興味があります。子供にとって、絵本は大切なものを教えてくれるひとつのものでもあります。絵が重要であり、その絵だけで子供に大切なことを教えてくれる、その絵本を自分で読み聞かせ、そしてまた自分で描きたいと思い、絵本を学べるチャンスだと思いました。最後に、子供たちに、学校で大好きな先生とお友達と一緒に、学ぶ楽しさを知ってもらいたい、学校に行くことの楽しさを知ってほしい、そんな思いで、このプリスクールで働くことを決めました。

 

この言葉は、ある子供に言われた言葉です。

ここ、プリスクールでは子供たちに、「お絵かきをしましょう!紙を切りましょう!」なんて言いません「お仕事がありますよ!お仕事をする時間ですよ」といいます。子供たちにとって、絵を描くこと、塗り絵をすること、絵本を読むこと、友達と遊ぶ事、お弁当を食べること、プリスクールですることは全て彼らのお仕事です。そして、子供たちは、それが自分の大事なお仕事だとわかると、喜ぶんです。積極的にお仕事をします。おやつの時間では、4歳のクラスの2人の子供が毎日交代で、先生の役をします。一つのテーブルに、8人と座ります。一人で、持ってこなくてはなりません。食べる前に、「おやつに準備はいいですか?」と言わなくてはなりません。しかし、先生の役。それがお仕事。すっごく楽しそうにするんんです。今日は、自分が先生の役をする日だと分かると、その日がとても楽しいんです。

そして、ある日、この言葉を言いました。

毎月、月の初め、4歳の子供はカレンダーを作ります。色を塗ったり、シールを張ったり、カレンダーの数字をマーカーでなぞったり。私は言いました。「じゃ、今日はここに、色を塗ってね。これだけだよ。簡単でしょ?」 こう言いました。すると、子供達はみんな怒りました。一人の女の子が私に言いました。「難しいの!簡単じゃない!やること全部難しい、だから、一生懸命やるんだよ。」そう言われました。これは、子供だけではありません。私たち大人にも言えることです。簡単なことなんてありません。どこにいっても見つかりません。どれも、責任をもって最後までやらなくてはならない。だから、難しい。一生懸命、努力もしない者は何も学べない、成長できない。子供たちは、初めから一生懸命、努力すること、諦めないで頑張ることを知っているんです。しかし、大人になるにつれて、面倒くさい。嫌だ、難しい、だからしたくないという言葉を使います。

 

私の留学は、英語に異文化を学ぶ。それだけではありませんでした。

一生懸命、努力する。どんなことでも諦めずに頑張る。それを学びました。

 

この言葉だけは、覚えて頂きたいです。

 

やること全部難しい、だから、一生懸命やるんだよ。

 

周りの助けがあったからこそ、今の私があるのだから。

もっと成長したい。

理由

サンフランシスコに住んで、4年になります。そんな経ったのかと。19歳の時に来て、今は23歳。早いものです。

 

 

私が留学しようと思ったきっかけ。

 

以前、とあるセミナーでもお話をしました。沢山の人に出会えることは素晴らしい経験のひとつ。しかし、素晴らしい方と出会うたびに、気付くと周りと比べてしまう私がいました。周りと比べ、焦り、ひとり劣等感に浸る。恥ずかしい話です。私は私。なのに、そう感じてしまうのは、新たに一歩踏み出したい。新しいことを見つけ、全力で挑みたい気持ちが出てきたことなのかもしれません。素直に、なぜ留学をしたいのか、その理由を忘れてはいけない。わたしにしかできないこともあると。10代の頃に感じた思いを忘れたくない。だから、ここにまた書き留めておこうと思います。

 

 

中学と高校の時に通っていた、女子高である宮城学院で、国際交流が盛んなこともあり

常に異文化体験をしていました。姉妹校を持つ、カナダ、オーストラリア、そして韓国。不思議なことに、韓国以外は、どちらも共学なんです。なので、女子高に、それはもう金髪にブルーの瞳のイケメン君も来るわけです。私が、中学生の時は、高校の先輩がイケメン君を連れて登校している姿が憧れで仕方なかったです。すっごく大人に見えました。そんなバカな気持ちで、私も彼らを、ホームステイの家族として受け入れたいと、思いました。そして、高校生になり、念願のホームステイ受け入れを体験しました。一週間という期間の中で、仙台の観光地、松島、青葉城、定禅寺道り。などなど。日本の文化を一緒に体験しつつ、彼らの文化と言葉を学びました。仲良くできていたと思っていたんです。英語も単語で会話を上手くつなげただけの、へたくそな英語でしたけど。オーストラリアの友達が言いました。「僕たちは、確かに友達になれたと思う、だけど、言葉の壁を感じず、自分の気持ちを上手く伝えられたらいいね」と。友達にはなれたと思います、しかし言葉の壁を感じると言われ、どうにかして、この壁を壊したいと思いました。勉強しました。しかし、いくら教科書を見たって、長い英語の文法が出てくるだけ。何も面白いことが見つかりませんでした。

そんなとき、学校で、希望者だけ、試験に合格した人だけ行けるサンフランシスコとカナダへ2週間の海外研修があるということで、行くことにしました。試験といっても、自分の長所と短所を英語で話すだけですが、あの時は、それを英語で説明すること自体がとても難しく、相当勉強しました。いきなり合格です。英語の成績が悪い私が、2週間の海外生活です。両親もびっくりです。

 

さて、このサンフランシスコとカナダのバンクーバーとビクトリア。生徒数名と先生で行きました。たった2週間の生活だと思いますが、その時は1か月はいるんじゃないかと思うくらい、長いと感じました。その国の独自の文化がより現れた街並みを歩くたびに、日本で生活していた今までのことがとても小さく感じました。ただただ圧倒されてました。

カナダのビクトリアで、ホームステイをしました。家族は4人家族。3歳と8歳の子供がいるご家庭でお世話になりました。やはり、日本人とは違い、8歳でこの身長。私と同じです。今では、モデルかと思うほど、イケメンです。

本当にいい体験をしたと思ってます。なかなか上手に話せないのに、しっかり目をみて理解しようとしてくれました。8歳の男の子でさえ、「あなたの言いたいことは、こういう事かな?」なんて気を遣わせていました。それくらい、優しく辛抱強く聞いてくれたんです。

私は、思いました。この言葉の壁を感じさせる英語が、もし理解できたら。もし、話せて、聞けて、書けて、そして読めることができたら、なんて面白いことが待っているのだろうと。

お互い、違う言葉を話します。違う国に住み、違う文化を持った者同士がお互いに通じる言

葉が一つだけあるとき、どうしてそれを学ばないのかと。いくらでも時間がある。今しか出来ない事は、その言葉を学ぶ事。言葉は面白いです、学べば学ぶほど、違う国に住む人たちをより理解できるんです。

私は、ここで初めて長く外国にいたいと思いました。それが留学です。まずは、英語を話せるようになりたいと思いました。

 

高校3年生は、本気で勉強しました。卒業後も、図書館にこもり勉強していましたが、ちょっと嫌いだった読書に興味を持ってしまったんですね。徹夜で読むほどです。本は、いろんな事を気付かせてくれます。上橋菜穂子さんの獣の奏者に出てきた、印象に残った言葉がありました。「努力しない者は、壁にすら辿りつけない」。高校を卒業し、独りで英語を学ぶとき、辛いときもありました。諦めようとも思いました。しかし、同時にたくさんの本にも出合いました。努力しなければ、その先の苦労もしらないで終わります。自分には難しかったかどうかなんて、分からずに諦めてしまっていいのか、きっと後悔すると思いました。諦めませんでした。勉強し続けました。

 

2011年いよいよ、この年に行ける。しかし東日本大震災がきました。大きな地震は私たちの生活を困難にさせました。家族3人と猫一匹で、車で過ごしたこともあります。一週間、父の会社のフロアで過ごしたこともあります。電気もガスも全く復旧しません。シャワーは一週間に一回、復旧が済んだ知り合いの家に行きました。水もありません。寒いなか何時間も待ちました。スーパーで、一人につき5つまでの食材を家族で長時間並びました。ガソリンもなく、自転車での生活が続きました。復旧には1か月以上。私の地域は、復旧が早い方でしたが、やはり、津波のあった地域の方がより時間がかかっております。家族が海に流されて、今も行方不明なままです。そのようななかで、自分の夢だけを考え、国を出て、留学してよいものか悩みました。両親は言いました「行っておいで。見ておいで。自分の目で、肌で感じてきなさい。こんな時でも、夢をあきらめないで欲しい」と。その時、会いたいと思いました。被災した地域のために、日本の為に祈ってくれた沢山の国のひと。違う文化や言葉を持った人々のやさしさを見てみたいと。

 

学校生活の思い出は今も忘れません。